2004年12月23日木曜日

貧乏の家に

俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」
なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!
って悪態ついたときの母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。

どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、
ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。

そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。

母にはハンドクリーム買ってやった。
いっつも手が荒れてたから。

去年俺は結婚したんだけど、
結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。初めて言ったよ。。

「生んでくれてありがとう」
って。

2004年11月23日火曜日

払えなかった運賃

仕事帰りに乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。

ある夜、駅ロータリーでいつものように客待ちをしていると血相を変えたリーマン風の男性が「〇〇病院まで急ぎで!」とタクシーに飛び乗ってきた。
男はどこかに電話をかけているようだが、相手が受け取らないようだ。
ヒーヒー言いながら男は平静を保っていた。しばらくすると男の携帯が鳴った。

男「もしもし!母ちゃんの様子は?…。
そうか、頼みがあるんだけど受話器を母ちゃんの耳にあててあげて!…。」
優しいが芯のある声で男が勇気づけるように語りだした。
男「おいおいいつまで寝てる気だよ、 朝散々人のこと叩き起こしてたくせによ。
今せっかく働いて、美味いもん食わしてやろうと毎日頑張ってんのに、」
「おれまだなんもしてねーよ!死ぬんじゃねーよ!おれが手握るまで息してろよな」と言って切った後、男は黙りこくっていた

しかし病院までの道のりはかなり遠い、男の苛立ちを背中でヒシヒシと運転手は感じ、信号を避けるため裏道など利用し最善を尽くした。
しばらく走ると再び男の携帯がなった
男「もしもし…そうか…わかった…もう着くよ」そう言い電話を切ると男は黙りこくった

そうこうしているうちに病院に着き、男は運転手にお詫びを言い病院の中に消えた

私はタクシーから降りる間際、お金を渡し、涙ぐんでこう言った
「覚えていてくれたんですね。これはあの時払えなかった運賃です。ありがとうございました。」

2004年10月23日土曜日

俺の近所に住んでた爺さんの話。

一人暮らしだった爺さんは子供好きで、ちっちゃい頃の俺もよく遊んでもらってた。
ある時、爺さんの家で見た暴れん坊将軍(だったと思う)の1シーンで
老中と主役が「じい」「若」と呼び合うのを二人で真似して
俺「じい!今日も遊びに来たぞ。」
爺「若、よくぞいらっしゃいました。」
なんて呼び合って遊んでいた。
そんな関係は俺が他県の大学に進学するまで延々と続いていた。

卒業後に実家に戻ってきたらなんと「じい」が脳卒中やって入院中だという。
さっそく見舞いに行ってみたら「じい」はたくさんの管に繋がれてベッドに横たわっていた。
看護士の話では外界からの刺激にはなんの反応も示さない状態だと言う。
俺は「じい」に呼びかけてみた。
「じい、俺だぞ。覚えてるか?」
ダメもとのつもりだった。・・・が、次の瞬間、閉じられていた「じい」の目がカッと見開き
そして今まで昏睡してたとは思えないようなハッキリとした声で喋った。

      「若、ご立派になられましたな。」

2004年9月16日木曜日

100万回生きた猫

死んでは生き返ってを繰り返し、100万回もの生を受けた猫がいました。猫にはいつも飼い主がいました・・・その数100万人。

皆、猫が死ぬとワンワンと嘆き悲しみましたが、猫自身は一度も泣いたことがありませんでした。

ところが、この猫に見向きもしないものがいました。それは美しい白い猫でした。猫は腹を立てました。そして毎日毎日、白猫に「俺はすごいんだぜ、なんてったって100万回も生きたんだから」と、自慢話をしに行きました。

白猫は気のない相づちを打つばかりでした。今日も猫は「俺はすごいんだぜ」と言いかけて、途中でやめました。

そして「そばにいてもいいかい?」と尋ねました。白猫は「ええ」とだけ言いました。

2匹は常に寄り添うようになり、一緒にいることがなによりも大切に感じるようになりました。

それからかわいい子猫がたくさん生まれ、猫はもう得意の台詞、「俺はすごいんだぜ」を言わなくなりました。いつのまにか自分よりも、白猫や子猫たちのことを大切に思うようになっていました。

やがて子猫達は巣立って行き、白猫は少しお婆さんになりました。猫は、白猫と一緒にいつまでも生きていたいと思いました。

ある日、白猫は猫の隣で、静かに動かなくなっていました。

猫は白猫の亡骸を抱いて、生まれて初めて泣きました。
100万回泣きました。そしてぴたりと泣きやみました。

猫は、白猫の隣で静かに動かなくなっていました。
それから猫は、もう決して生き返りませんでした。

2004年8月2日月曜日

ありがとう、お母さん

私を大学に通わせてくれた母へ

あなたは私を産むまでずっと父の暴力に苦しんでいましたね
私が産まれて時、あなたは泣きながら喜んだんですね
私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね
借金を返すために昼はパート夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね
保育園では遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね
小学校の給食費を払えない月もありましたね
修学旅行のおみやげはご当地キーホルダーだけでしたね
中学の制服は親戚のおさがりでしたね
高校のお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔でしたね

無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね
ごみ処理場から捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね
お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね
センター試験の前日には初めて特上寿司を食べさせてくれましたね
センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね
前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね
あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね
私もあなたにずっと謝り続けましたね
そして私は気持ちを切り替えて後 私はその後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来ましたね あなたはずっと「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね

でもあなたは入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね 医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね
私がただただ泣き続けている時にあなたは「この体の傷や癌の一つ一つがあなたを育てあげた立派な勲章なのよ」と微笑みながら言いましたね 
あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね

今私は医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を治療して助けたいから
私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど、あなたに生まれ、育てられて本当によかったよ

ありがとう、お母さん。

2004年7月12日月曜日

大人になったあの二人

役員「では自己紹介を手短に」
剛田「はい。ハーバード大学院経済学修士課程から参りました、剛田たけしです」
役員「では、アピールポイントを3分で」
剛田「はい。2点あります。一つはリーダーシップ、二つ目は体力です。
   リーダーシップに関してですが、小学校の頃にジャイアンズという野球チームを
   立ち上げ、何度ものメンバーチェンジ、選手交渉、トレードを経てNYヤンキース
   に勝利するまで育て上げました。
   体力に関してですが、先に申した野球を始め、サッカー、アメフト、柔道など
   幅広いスポーツをこなしました。体力なら自信があります。
   またMorgan Stanleyで事務のアルバイトを経験し、不眠不休でエクセルの表を
   作っていました。」
役員「では学生時代に頑張ったことは?」
剛田「先ほど野球チームとアルバイトの話をしたので、アイビーリーグの学生をまとめて
   大規模なビジネスコンテストを主催した経験について話します。
   ハーバードの院に入った年から活動し始めたのですが、GE、P&G、AT&T、IBM、Merrill Lynch
   などの企業の役員にアポを取ることから始め、スケジュール管理、各大学への訪問などを繰り返し最終的に
   アメリカの5000人もの学生を集めることに成功しました。延べ一年半を費やしてようやく実現にいたりました」
役員「いやあ、君は優秀だね。なんだっけかな・・・君と出身小学校が同じ子が面接に来たんだが
   奇妙奇天烈な学生でね。選考には進ませなかったんだが。」
剛田「その学生・・野比という名前では?」
役員「ん、まあ名前は言わないけど。“無能”な子だという印象を持ったよ」
剛田「・・・・謝れ」
役員「なんだって?」
剛田「謝れと言っているんだよ、俺の友人に」
役員「内定あげようと思ったのに」
剛田「こんな会社の内定なんていらない。   だから野比に謝れ」

2004年6月17日木曜日

娘が好きだったハム太郎の映画を観た

娘が6歳で死んだ。
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。

直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので
病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
葬式には別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、
もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく、機械的にすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていた
ゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
とっとこぉはしるよハム太郎♪の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。

女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、
服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし
成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。

女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、
必死にやってきたのに、この世に神様なんて絶対いないんだと知った。

2004年5月17日月曜日

最後の家族写真

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。


その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

2004年4月3日土曜日

子供のやさしさ

中学校1年のときのこと
授業中に隣の席の女の子がおしっこ漏らしていました
女の子の席は一番後ろのはじだったので他には誰も気がついてない様子
僕はおもむろに席を立って無言で廊下へ
先生が後から追いかけてきたけど無視して手洗い場でバケツに水を汲むと教室に戻り
その女の子にぶっかけました
教室中大騒ぎになり、学校に両方の親まで呼ばれました
うちの親は相手の親に平謝り
なぜそんなことをしたのか問い詰められましたが
僕は結局最後まで口を割りませんでした
家に帰る途中で女の子が事実を親に話したらしく
お礼を言いにうちまで来ていました

時は過ぎて今その女の子は僕の奥さんです

2004年3月18日木曜日

花が手向けられている電信柱

よく通る道に花が手向けられている電信柱があり、
通る度に供えられた花の種類が変わっていたので
よほど大切な人を亡くしたんだろうなと気になって見ていた。
ある時、その電信柱の前を通ったらその花が荒らされていた。
次の日通ると花は綺麗に新しくなっている。
その日の夕方に通るとまた花が荒らされていた。
その後荒らされる→新しい花→また荒らされるというのが暫く続いた。
猫や鳥にやられたのかな?と思いつつ通り過ぎていたが、
ある日偶然にもその花を荒らしている最中の人を発見。
俺はとっさに車を降り、
「何してるんですか!」と咎めた。
するとこちらを向いた40~50代位の女性に女性が
「○○ちゃんを返して~」と号泣。
虚をつかれうろたえながら彼女を宥めつつ話しを聞くと、
彼女は娘さんをここで亡くした。
娘さんは歩いていて、車に突っ込まれた。
運転していた男性もこの電信柱にぶつかった衝撃で亡くなった。
この花は加害者の男性の家族が供えている。
その花を見る度に娘を思い出してしまい、いたたまれなくなって
花を荒らすようになってしまった。
といった感じでした。
「もうこんな事はしませんから・・・」
と泣きながらふらふら帰っていく彼女を見て
やるせない気持ちになり暫くそこに立ち尽くしてしまいました。