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2024年9月3日火曜日

母親系泣けるコピペを連投②

とにかく泣ける母親系コピペを連続でどうぞ。
母の愛、思い出は偉大ですね。


アイスクリームのせいで

あの日俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕食も食べずに部屋に篭もった
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたようだ、が、父親が部屋に飛び込んで来たので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の父親の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげて下さいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のためにはアイスを買いに行って事故にあったとわかった

通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんな
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている。

ーーーー

好物のから揚げ

母が俺の部屋にきて今日のごはんについて聞いてきた
「たけし 今日ご飯なににする?」
からあげが食べたかったが、
素直に「から揚げが食べたい」といえなかったので
「なんでもいい!」と答えた
「なんでもいいが1番困るのよ~、ねえ何がいい」
母があまりにしつこいので酷い言葉を浴びせてしまった
「なんでもいいから、早く作れよ!!」
母はすこし悲しそうな顔で台所に向かった
「たけしー ご飯よー」
しばらくして母に呼ばれたが、すぐには向かわなかった
よばれてからかなり後に食卓に向かうと、そこでは母が待っていた
母が持ってきたのは俺が食べたかった、から揚げだった・・・
なんだかとてもうれしかったので 洗物をしている母に
久しぶりに「ごちそうさま」といった
すると母は今まで見たことのないくらいの笑顔で
「ありがとう」といった
久々に見た母の笑顔だった
うれしかったが、今まで「ごちそうさま」という
こんな当たり前の言葉も 言えなかった自分を
恥じないではいられなかった
今度機会があったら、母に「いつもありがとう」と伝えたいと思う・・・

ーーーー

母の優しさ

ちょっとした事で母とケンカした。
3月に高校を卒業し、晴れて4月から専門学生となる私は、
一人暮らしになる不安からかここ最近ずっとピリピリしていた。
「そんなんで本当に一人暮らしなんて出来るの?あんたいっつも寝てばっかで‥ゴミ出す曜日は確認した?朝は起きられるの?火事だけには気をつけてよね?」
事あるごとに聞かされる母の言葉にうんざりして、
ついに今日
「あぁー!もぉーうるさいなあ!!自分で決めたことなんだから大丈夫だって!!わざわざ不安を煽るような事は言わないでよ!!すこしは私の気持ちも考えて!最初っから上手くいくわけないでしょお!?自分の娘ならちょっとくらい応援してくれたっていいじゃん!!!」
と自分でもビックリするぐらい大声で母に怒鳴ってしまった。
はっとして
「やばい!怒られる」と思ったが母は何も言わず、悲しいような怒っているようなどこか複雑な顔をしてそのまま車に乗って行ってしまった。
いつもと違う母の様子に少し戸惑ったが、特に止めもせず、イライラしながらもテレビや携帯を見て一人で適当に時間を潰した。
夕方をすぎても夜になっても母は帰って来なかった。遅い。遅すぎる。
まさか事故にでもあったのか‥?冗談じゃない。それだったら病院から電話があるはず‥
なんて考えていたら外で母の車のエンジンの音が聞こえた。
「ただいまー。」
いつも通りの母の声にほっとした反面、なんでこんな帰りが遅いのか問いただそうとした瞬間、
目の前にやたらと大きな薬局の袋が置かれた。
「何これ?」と母に聞くと、
重たそうなその袋を見ながら
「あんたの薬。一人暮らしするとき薬がなかったら大変でしょう。とりあえず一通りあったもの買ってきたから。あんたはすぐ体調崩すからねぇ。」
頭痛薬、咳止め、湿布や包帯、口内炎の薬、のど飴など袋の中にはありとあらゆる種類の薬が入っていた。
「こんなにたくさん‥」驚いてもうそれしか言えなかった。こんな時間まで私のために母は‥
「一人暮らしかぁー。見送ってやらなきゃいけないのにねぇ。お母さん心配でね、すごく寂しいのよ。
風邪引いた時とか本当はお母さんがそばにいてあげたいんだけどねぇ。」
もうそれ聞いて涙が溢れて溢れて、自分の不甲斐なさと母への申し訳なさで顔あげられなかった。薬だって決して安いもんじゃないのに。
自分の娘を応援しない母親なんて居るはずないのに、なんで気づいてあげられなかったんだろう。もっと応援しろだなんて‥
一番私のことを思ってくれて支えてくれたのは他でもなくお母さんなんだよね。
分からず屋でゴメン。いつもいつもいつもいつもありがとう。
その後、遅めの晩御飯を母と一緒に食べました。
残り少ない母の味をもっと大切にして行こうと思います。

ーーーー

娘に残した3本のビデオ

サキちゃんのママは重い病気と闘っていたが、死期を悟ってパパを枕元に呼んだ。
その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。
 このビデオの1本目は、サキの3歳の誕生日に。2本目は小学校の入学式に。
 そして3本目は…○○○の日に見せてあげてください」
まもなく、サキちゃんのママは天国へと旅立った。

そして、サキちゃんの3歳の誕生日。1本目のビデオがかけられた。
(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出される)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。
 でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、こうやってしか会えない。
 パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いに来ます」

サキちゃんの小学校入学の日。2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう……。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。
 サキちゃん、ちゃんと聞いてね。
 ママが今住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。
 でもね、パパのお手伝いがちゃんとできたら、ママ、もう一回だけ、会いに来ます。
 じゃあ、魔法をかけるよ。 エイッ!
 ほうら、サキちゃんは料理や洗濯ができるようになりました」

そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。

新しいママが来た日のサキちゃんに


そしてサキちゃんが10歳の時、パパは再婚し、新しいママが来た。
3人いっしょに、3本目のビデオを見つめた。
なつかしいママの顔が映し出された。
「サキちゃん、おうちの仕事、がんばったね。えらかったね。
 でも、もう大丈夫。新しいママが来たんだから。
 ……
 サキちゃん。今日で本当にお別れです。
 ……
 サキちゃん、今、身長はどれくらい?ママには見えない。
 (泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る)
 ママ、もっと生きたい…。
 あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい…。
 あなたの成長を見つめていたい…。
 じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。
 それは、『ママを忘れる魔法』です。
 ママを忘れて、パパと、新しいママと、楽しい暮らしをつくってください。
 では、魔法をかけます。1、2、3、ハイッ!」
そこでビデオは終わった。

しかし、サキちゃんに、この魔法は効かなかった。
パパと、新しいママにも効かなかった。
ママは、みんなの心の中に、ちゃんと残っていた。

そして今度は、サキちゃんが主役の、4本目のビデオがつくられたのだった。
天国のママに見てもらうために

ーーーー

生んでくれてありがとう

母が死んで今日で一年とちょっと。高齢出産だったこともあって、
俺の同年代の友達の親と比べると明らかに年くってた。
俺が「なんでもっと若く生んでくれなかったの!?」と責めたこともあった。
俺が思春期のころとにかく心配性な母がうざいのと、親父には恐くて
何も言えなかったから何でもかんでも
母に当たってた。たくさん文句言って寝ようと自分の部屋に入ったとき
母のすすり泣く声が聞こえたときは自分の不甲斐なさに気付き俺も泣いた。


お母さんが死ぬ時っていつか来るってわかってた。
でも気付いてからは遅いんだよね。そんな俺も今年で23才になる。
20才を迎えたくらいから親孝行したいなって思って
高齢出産だった母に孫の顔を見せてあげたいなって思ってた。
それで、先月生理来ない彼女が病院行ったら子供が出来てたよ。お母さん。
無事に生まれてくれたらいいな。
俺を生んでくれてありがとう。高齢出産だったから辛かったろう。
でも孫の顔見せてあげたかったな。抱かせてあげたかったな。
でももうお母さんの笑顔見れないんだよね。あの笑い声ももう聞けないんだよね。
でも俺少しは一人前の大人になったよ。学歴も無いし給料安いけど
ついに家庭を持つよ。こんな幸せなことってなかなか無いよね。

俺の子供にはお母さんからもらった優しさを少しでも分けてあげたい。
休みの日は子供といっぱい遊ぶ。俺が小さい頃のお母さんよりは
動けると思うよ。なんたってまだ俺若いからね。

お母さんが死ぬ前日に俺に言った言葉。
「今日はお風呂入ってもう寝なさい」
あの時寝なきゃ良かったな。今でも思うよ。一晩中話しとけば良かったよ。
なんで死んじゃうんだよ。お母さん。もっといっぱい甘えとけば良かった。
もっといっぱい話したかった。旅行に連れて行ってあげたかった。
それで美味しい物いっぱい食べさせてあげたかった。
次の日冷たい体に抱きしめても、声かけても何も返って来なかったよ。
お母さん、天国から俺の事見える?
俺の事もう心配しなくていいからね。子供の名前何にしようかな。
お母さんだったらどうする?明日仕事休みだから彼女とお墓参り行くよ。

最後に生きてるとき言いたかったけど言えなかった言葉。
「お母さん、生んでくれてありがとう」



2024年8月13日火曜日

母親系泣けるコピペを連投①

とにかく泣ける母親系コピペを連続でどうぞ。
母の愛、思い出は偉大ですね。


母がプロ野球のチケットをもらってきた

幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
学もなく、技術もなかった母は、
個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、
何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、
日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。
給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、
母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。
チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、
帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、
外のベンチで弁当を食べて帰った。
電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、
母に孫を見せてやることもできた。
そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。
俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。

ーーーー

ハッピーバースデー

漏れが就職して初めてのボーナスが出た日、職場の皆で呑みに行った。
ベロベロに酔っ払って、ゲーセンは行ったらケーキの形したぬいぐるみのUFOキャッチャーがあった。
3000円ぐらい使って1コ取って、気になってた同僚の女の子にあげようと思ったら、「いらな~い」って言われた。
どうしていいやらわからずに、とりあえずカバンに入れてそのまま持って帰った。
ケーキのイチゴの部分を押すと、電子メロディで「ハッピーバースデー」の曲が流れた。
ちょうど母親の誕生日が近かったので、それとなく「母ちゃん、これあげる」って渡した。
今まで誕生日プレゼントなんてあげたのは2、3回しかなかった。照れくさかったから。
母親は驚いた顔をしつつ、ニコニコしながら受け取った。
「ここを押すとメロディが流れるから」って教えると、延々とハッピーバースデーを聴いていた。

2年後の母親の誕生日。
仕事がキツくて夜中まで働いた翌朝、起きる時間まであと20分あった。
朝の20分の睡眠時間は貴重だった。
なのに、耳元で耳障りな電子音が聞こえてきた。
例のケーキのぬいぐるみだった。
母親が、
「メロディ止まらなくなっちゃったのよ、なんとかして」
と言って立っていた。

「知らねーよ。眠いんだから出て行け」

と言ったら、母親はぬいぐるみを俺の枕元に置いていった。
けたたましく鳴り響くハッピーバースデーのメロディに、漏れはブチ切れて

「ふざけんなよ、うるせーんだよ!」

といってぬいぐるみを廊下に叩きつけた。
唖然としてぬいぐるみを拾い上げる母親。
メロディは鳴らなくなっていた。
母親がうっすらと涙を浮かべていたのに気が付いてはいたが、そのままベッドにもぐりこんだ。

朝食は無言のまま。バツが悪いのでさっさと出勤した。


それから母親がそのぬいぐるみの事を口にする事はなかった。
でも、漏れは知っている。押入れのたんすの中にそっとしまわれている事を。
もう8年ぐらい前の話だ。

母親はまだ健在だが、どうしてもあの時自分がしてしまった事を後悔している。
なんとか、あのぬいぐるみを直してやりたい。

誰か、知らないだろうか?
ボタン電池ぐらいの大きさで、押すと電子メロディでハッピーバースデーが流れる小さな回路を。
どこか売っていたら教えてくれ。頼むから…

ーーーー

ありがとう、お母さん。

私を大学に通わせてくれた母へ

あなたは私を産むまでずっと父の暴力に苦しんでいましたね
私が産まれて時、あなたは泣きながら喜んだんですね
私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね
借金を返すために昼はパート夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね
保育園では遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね
小学校の給食費を払えない月もありましたね
修学旅行のおみやげはご当地キーホルダーだけでしたね
中学の制服は親戚のおさがりでしたね
高校のお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔でしたね

無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね
ごみ処理場から捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね
お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね
センター試験の前日には初めて特上寿司を食べさせてくれましたね
センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね
前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね
あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね
私もあなたにずっと謝り続けましたね
そして私は気持ちを切り替えて後 私はその後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来ましたね あなたはずっと「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね

でもあなたは入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね 医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね
私がただただ泣き続けている時にあなたは「この体の傷や癌の一つ一つがあなたを育てあげた立派な勲章なのよ」と微笑みながら言いましたね 
あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね

今私は医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を治療して助けたいから
私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど、あなたに生まれ、育てられて本当によかったよ

ありがとう、お母さん。

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母親の誕生日

還暦を迎えた母に誕生日おめでとうメールを送った返信。

件名:ありがとう
本文:ついに60代になってしまいました。
思い返せば、30代は小さなあなた方を夢中で見つめていました。
40代は、若々しく成長していくあなた方に見とれていました。
50代は頼もしく輝いていくあなた方に目を奪われていました。
あなた方がみんな素敵な伴侶を見つけ、巣立って行ってから迎えた60代は
20代の頃に戻ってもう一度お父さんと見つめ合おうと思います。


うっかり感動してしまった。

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捨ててしまった弁当

母子家庭だったうちは貧乏極まりなかった。
高校になってから、毎日お弁当を作ってくれたんだけど、友達のほとんどは学食で食べていて、弁当持参がとても嫌だった。
ある日、いつものように弁当を作ってくれた母親に「お前の弁当なんていらねーんだよ!」と台所に捨ててしまった。
キョトンとした後に悲しそうなあの表情、今でも忘れられない。その後怒るどころか、「ごめんな、料理下手だから気に食わないんだね」って泣いてた。
結局その後お弁当は作らずに、毎日400円貰ってた。母親の稼ぎは相当低かったのに、やりくりして出してたんだろうな。
何度も謝ろうとしたんだけど、結局言い出せなかった。
そんな俺も社会人になったんだが、母親がガンで逝ってしまった。
家を片付けてると、学生の時に作ってくれていた弁当箱を発見した。
結局、弁当を捨ててしまった事は話題すらしなく謝れないままだった。
朝早起きしてくれて作ってくれてたお弁当、愛情がこもったお弁当、なんであんな事してしまったんだろう、なんで謝れなかったんだろうって今でも後悔しまくり。
自炊するたびに、母ちゃんは手間隙かけて作ってくれてたんだなぁって痛感するよ。
本当にごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、むしのいい話ですが、お母さんのお弁当が食べたいです!

2021年8月19日木曜日

錆びたハンドクリーム缶

俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。
そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。
いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、
結婚式前日に母に大事そうに錆びた ハンドクリームの缶を見せられた。

ごみ袋から

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。

当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。

そこで、私達はいつも近所に住むAさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。

「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、
その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。

家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。

「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」と言って、
母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。

「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、
ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…

2020年2月10日月曜日

持たされたおにぎり

夏休みで実家に帰省していた最後の日に母親が
「これ持っていきなさい」と、おにぎりを渡された。
すでにタオルや洗剤を、お土産?として持たされていた俺は、
「これ以上は、荷物が増えるから、こんなんいらねー」って断ったんだけど、
母親は「いいから、この位持っていけるでしょッ」と強引にカバンに詰め込みました。
それで、お互いにムッとして気まずいままに、俺は実家を出ました。
でも実際、住んでいる所へ戻る途中、お腹が空いたので、
そのおにぎりを食べたのですが、何年かぶりに食べた母親の大きなおにぎりは、
コンビニのおにぎりよりも断然に美味しかった。

母さん、ゴメンナサイ、アリガトウ。

2019年4月9日火曜日

京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件のあまりに悲しい結末

こんばんは、こうちゃんです。

こちら、介護を苦に母を殺害してしまい、自身も死のうとした方の、今も語り継がれる泣ける裁判での様子です。

ーーーー

もう一度母の子に生まれたい

認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

ーーーー

しかし、あまりにも悲し過ぎるその後が。

ーーーー

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。
~~
それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。
琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。

ーーーー

これが誰かが悪かったというならばまだわかる。
しかし、この母の認知症も、誰もがなる可能性があり、その介護苦で長男が仕事もできずお金も立ちいかない、こんなことも誰にでも起こりえること、なのに、この国には何も救いはないのですね。
汚い生活保護の不正受給は許しても、この人たちには生活保護もされず、誰も悪くないのに死んでいく庶民を横目に贅沢三昧で、庶民の血を吸って楽しく生きていく、ゴミのような政治家や富豪たち。
この世は地獄ですね。