ラベル 家族 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 家族 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年12月11日水曜日

かわいく思えなくなった娘

こんばんは、こうちゃんです。

家族のためにがんばっても・・・しょせん父親なんてこんな扱いなんですね(涙)

ーーーー

3歳になる娘がかわいく思えなくなりました。
昨日の出来事
朝、娘と朝ごはんをたべていたときのこと
娘は自分のスプーンで食べているのだが
パパも一口頂戴と言ってごはんを一口もらったんだ
そうしたらスプーンをじっと見つめた娘が
「ママスプーン洗って!」と泣き出した。
俺「なんで洗うの?」
娘「パパ臭いから」
在宅仕事のため、今まで、飯からトイレ、風呂、遊び相手と
合間合間で常に世話してきたのに…。
思春期になったらそういうこともあるだろうとおもっていたが
3歳で言われるとは…かなりへこんだ。
もう娘の相手はしないと本人と嫁に宣言した。
あれからトイレの世話も遊び相手もしていない。
夜、自分のおかずを娘に箸でたべさせたあと
「汚ねえ」といいながら箸を洗うことを2回ほどくりかえしたら
涙目になってやがった。ざまあwww
親として最低だと思う。許してあげないといけないのはわかってるができない。
話しかけてきても無視してる。
外出時は、歩道のない道で手をつなぐ等、あぶないことは注意する等
最低限のことはしてる。

ーーーー

そして、金と命の重さと考えるとひどい話

ーーーー

ガラスといえば、昔購読していたJAFの月刊誌思い出したわ
JAF隊員が遭遇した信じられない救援とかのタイトルだったかな

ある連休中、高速のパーキングでインロックしてしまったから開けて~!
という主婦の依頼を受けた
ところがその日は渋滞が激しく、隊員が到着したのはおよそ一時間後のこと
ようやく依頼主の車に辿り着いたらその主婦が涙目で訴えている
「中に…赤ちゃんが閉じ込められているんです!
 この日差しの中、大丈夫かしら…お願い!すぐに助けて!」

隊員は慣れた手つきですぐに開錠し、赤ちゃんを救出した
多少汗をかいていたものの、大事にはいたらなかったようだ
隊員は一通りの処理を済ませたあと、その主婦に言った
「お母さん、いざというときは後ろの窓を割って下さい
 前や横と違って後ろのガラスは石なんかでも割れるんですよ?」

それを聞いた母親はこう返したそうだ
「え~?でもガラスって割ったら高いじゃないの~」

ーーーー

親のこと考えたら、会っておいた方がよいと思える話

ーーーー

ところでさ、一人暮らししてる人は年に何日実家に帰ってる?
俺は仕事が忙しくて夏休み3日正月休み3日の、計年間6日位なんだけどさ。
俺のカーチャン今50歳で、考えたくないけど
女性の平均寿命から考えてあと30数年とするわな。
単純計算すると、あと180日位しか会えないことになる。
冷静に考えてみたら、もう半年しかないんだぜ?
おまえらも数えてみ?
あと何日カーチャンに会える日がある?

ーーーー

この前未読迷惑メールが溜まりすぎたから
全部消していったんだ
そしたら2500件のうち、2388件が迷惑メールだった
しかも残った112件の内ほとんどが母からだった
さすがに泣いた

これは・・・別の意味で泣ける


こうちゃん

2024年12月3日火曜日

感動系泣けるコピペ

こんばんは、こうちゃんです。

泣けるコピペと言っても、ただ悲しい切ない物語だけではなく、
時に感激、感動系の泣けるコピペもあるものです。

そんな素敵な感動の泣けるコピペも集めてみました。


ーーーー

母親とつまらない事でケンカした。
つまらない事なのに、凄い暴言を吐いてしまった。
一人暮らし中の私は、そのまま自分の家に帰って
母から電話が掛かっても、絶対に出なかった。

3日経ってやっと頭が冷え、自分のバカさ加減に情けなくなり
「謝らなきゃ・・・」と思うようになった。
とはいえ、直接電話するのも躊躇う。
卑怯かもしれないけど、謝りのメールを母に送る事にした。

『この前はごめんなさい。』 これが精一杯の言葉。
10分後、母からメールが返ってきた。
ドキドキしながら見ると、件名には『アホな娘へ』と書いてある。
もっとドキドキしながら本文に目をやると
『アホやね お母さんは怒ってませんよ(^0^)
夜ご飯食べにおいで 待ってます』

子供の時みたいにボロボロ泣いた。
メールにしといてよかった・・・

ーーーー

親父、覚えているか。
俺が小さい頃、この店の前で駄々をこねてお子様ランチを食べたいと言った事を。
親父は「我侭を言うな」と一喝し、俺の頭を殴ったな。
俺は泣きじゃくっていたが、それを背に親父は歩いていったな。
母さんに支えられながら歩いた俺は、親父のその背中を見て、畏怖したもんさ。
家に帰っても親父とは話ができず、家の中には気まずい空気が流れていたな。
その日から、何日経っただろうか。
母さんが「こっそりあの店に行きましょう」と言ってくれた。
俺は歓喜に震えながらも、後で親父にバレて怒られる事を危惧した。
だが、幼い俺はお子様ランチの誘惑には勝てず、母さんと二人、店に向かった。
その店に向かう道中からその店でお子様ランチが出るまで、俺はワクワクしっ放しだったさ。
そして、念願のお子様ランチが出てきた時には、もう俺の喜びは最高潮に達した。
そこからは、俺もあまり覚えてないな。
本当にもう、ただお子様ランチに心を奪われていたんだな。
気付いたら、既に皿の上には何も乗っていなかったさ。
そこで再び、俺の中には親父への畏怖が湧き上がってきた。
そこで俺は、恐る恐る母さんに対して口を開いた。「この事、父さんには内緒だよね……?」と。
しかし母さんは言う。「う~ん、それは無理かもね」
俺は愕然とした。
どうして?どうして?どうして? ――
何も信じられなくなろうとした刹那、母さんはこう続けた。
「父さんが『この金で連れて行ってやれ』って言った事だから」

親父、覚えているか。
俺は、今でもあの時の親父の背中を覚えてるよ。
けど、本当は ―― 本当は、親父と一緒に食いたかったんだぜ?
―― 今更言ってもしようがないし、親父は不器用だったから仕方ないかもしれないけど ――
だから、約束してくれ。
俺がそっちに行ったら、一緒に ――

ーーーー

俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」
なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!
って悪態ついたときの母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。

どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、
ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。

そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。

母にはハンドクリーム買ってやった。
いっつも手が荒れてたから。

去年俺は結婚したんだけど、
結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。初めて言ったよ。。

「生んでくれてありがとう」
って。

ーーーー

仕事帰りに乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。

ある夜、駅ロータリーでいつものように客待ちをしていると血相を変えたリーマン風の男性が「〇〇病院まで急ぎで!」とタクシーに飛び乗ってきた。
男はどこかに電話をかけているようだが、相手が受け取らないようだ。
ヒーヒー言いながら男は平静を保っていた。しばらくすると男の携帯が鳴った。

男「もしもし!母ちゃんの様子は?…。
そうか、頼みがあるんだけど受話器を母ちゃんの耳にあててあげて!…。」
優しいが芯のある声で男が勇気づけるように語りだした。
男「おいおいいつまで寝てる気だよ、 朝散々人のこと叩き起こしてたくせによ。
今せっかく働いて、美味いもん食わしてやろうと毎日頑張ってんのに、」
「おれまだなんもしてねーよ!死ぬんじゃねーよ!おれが手握るまで息してろよな」と言って切った後、男は黙りこくっていた

しかし病院までの道のりはかなり遠い、男の苛立ちを背中でヒシヒシと運転手は感じ、信号を避けるため裏道など利用し最善を尽くした。
しばらく走ると再び男の携帯がなった
男「もしもし…そうか…わかった…もう着くよ」そう言い電話を切ると男は黙りこくった

そうこうしているうちに病院に着き、男は運転手にお詫びを言い病院の中に消えた

私はタクシーから降りる間際、お金を渡し、涙ぐんでこう言った
「覚えていてくれたんですね。これはあの時払えなかった運賃です。ありがとうございました。」

ーーーー

俺の近所に住んでた爺さんの話。

一人暮らしだった爺さんは子供好きで、ちっちゃい頃の俺もよく遊んでもらってた。
ある時、爺さんの家で見た暴れん坊将軍(だったと思う)の1シーンで
老中と主役が「じい」「若」と呼び合うのを二人で真似して
俺「じい!今日も遊びに来たぞ。」
爺「若、よくぞいらっしゃいました。」
なんて呼び合って遊んでいた。
そんな関係は俺が他県の大学に進学するまで延々と続いていた。

卒業後に実家に戻ってきたらなんと「じい」が脳卒中やって入院中だという。
さっそく見舞いに行ってみたら「じい」はたくさんの管に繋がれてベッドに横たわっていた。
看護士の話では外界からの刺激にはなんの反応も示さない状態だと言う。
俺は「じい」に呼びかけてみた。
「じい、俺だぞ。覚えてるか?」
ダメもとのつもりだった。・・・が、次の瞬間、閉じられていた「じい」の目がカッと見開き
そして今まで昏睡してたとは思えないようなハッキリとした声で喋った。

      「若、ご立派になられましたな。」

ーーーー

国内で世界記録を20分以上も塗り替えるような記録を出しながらも本大会では日射病で倒れ、行方不明扱いにされてしまった。
日本の期待を一心に背負いながら、それでも走りきれなかったことで、深い自責の念に駆られた。
それでも日本のマラソンの発展のために50年間尽くしてきた。

1967年、ストックホルムオリンピック委員会から「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないかという連絡が届いた。
式典後、当時のコースを懐かしげに辿る金栗。そして55年前にたどり着けなかったスタジアムに足を踏み入れた。
何故かそこには観衆と役員、そしてゴールテープ。思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った金栗。

『日本の金栗がただ今ゴール。
          タイムは55年…。
                 これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました』

ーーーー

役員「では自己紹介を手短に」
剛田「はい。ハーバード大学院経済学修士課程から参りました、剛田たけしです」
役員「では、アピールポイントを3分で」
剛田「はい。2点あります。一つはリーダーシップ、二つ目は体力です。
   リーダーシップに関してですが、小学校の頃にジャイアンズという野球チームを
   立ち上げ、何度ものメンバーチェンジ、選手交渉、トレードを経てNYヤンキース
   に勝利するまで育て上げました。
   体力に関してですが、先に申した野球を始め、サッカー、アメフト、柔道など
   幅広いスポーツをこなしました。体力なら自信があります。
   またMorgan Stanleyで事務のアルバイトを経験し、不眠不休でエクセルの表を
   作っていました。」
役員「では学生時代に頑張ったことは?」
剛田「先ほど野球チームとアルバイトの話をしたので、アイビーリーグの学生をまとめて
   大規模なビジネスコンテストを主催した経験について話します。
   ハーバードの院に入った年から活動し始めたのですが、GE、P&G、AT&T、IBM、Merrill Lynch
   などの企業の役員にアポを取ることから始め、スケジュール管理、各大学への訪問などを繰り返し最終的に
   アメリカの5000人もの学生を集めることに成功しました。延べ一年半を費やしてようやく実現にいたりました」
役員「いやあ、君は優秀だね。なんだっけかな・・・君と出身小学校が同じ子が面接に来たんだが
   奇妙奇天烈な学生でね。選考には進ませなかったんだが。」
剛田「その学生・・野比という名前では?」
役員「ん、まあ名前は言わないけど。“無能”な子だという印象を持ったよ」
剛田「・・・・謝れ」
役員「なんだって?」
剛田「謝れと言っているんだよ、俺の友人に」
役員「内定あげようと思ったのに」
剛田「こんな会社の内定なんていらない。   だから野比に謝れ」

ーーーー

俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、
良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、
その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。

当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。

そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。

2020年4月19日日曜日

おじいちゃんおいしい

こんばんは、こうちゃんです。

これはちょっと・・・
泣ける、というか、少々アホなコピペなんですが。

---

小さい頃、じいちゃんが死んだ。俺は小さいから死というものがよく理解できず、
両親が変な服(喪服)を来て泣いてばかりいるのが不思議だった。じいちゃんは箱に入れられて、変な服(白装束)を着せられていた。
出棺後、車の中で「これからどこへ行くの?」と聞くと、母は「おじいちゃんを焼きに行くのよ」と答えた。
その答えが何だか恐くて、母の膝に顔を埋めていたら、そのまま寝てしまった。

目が覚めるとすべてが終わっていて、俺は自宅の布団にいた。
起き出していくと両親は普段通りの姿で、母は夕食の準備をしていた。
おかずは、豚の生姜焼きだった(じいちゃんが生前好物だったらしい)。
準備が整って、いざ食べようとしたとき、父がじいちゃんを思い出したのか「お父さん・・・」と言って泣き出した。

俺は、車中での母の話と合わせて、これはおじいちゃんを焼いた肉だと思い込んでしまった。
それでも両親が食べ始めたので、俺も食べた。旨かった。
俺が「おじいちゃんおいしいね」と言うと、母が「**ちゃん、おじいちゃんが見えるの?」と驚いた。
俺は目の前の肉の事だと思って「うん、ぼくの前にいるよ」と言った。
その答えに両親が再び激しく泣き出したので、これは間違いなくじいちゃんの肉だと確信した。

誤解が解けたのは小学生になってから

---

色々ツッコミたいですねw
でも、家族的には真面目だったんでしょうし、
そりゃあ誤解解けるまでは怖かったでしょうねえ。

こうちゃん

2020年2月10日月曜日

いつの間にかの実家

昨日気がついたら車で3時間かかるのにいつの間にか実家に帰っていた。
案の定、お袋は
「突然どうしたの?何かあったの?」
と心配ばかり。
思わず
「何もないけど・・・帰ってきたら不都合だった?」
と悪態ついてしまった・・・

その後、ゆっくりテレビを見ていたら、お袋が
「風呂丁度いいけどついでに入る?」
と言って来た。
言われるがままに風呂に入った。

かーちゃん・・・綺麗な湯と背中に感じる冷たい浴槽が身にしみるよ。
この寒い中、冷えた残り湯で俺の為だけに風呂を洗って急いで
湯を張ってるお袋の姿がハッキリ見えて、風呂場で泣いた。

風呂から上がると晩飯ができていた。
お袋は
「大したものじゃないけど、晩御飯の残り物で悪いけど
 コレでも食べて明日からも頑張ってね。」
と・・・

食器を下げる時に気付いた。
晩御飯の残り物は白飯だけじゃないか・・・
他の料理は明らかに今作った物だった。
「上手かった!」
とだけ言い残しトイレに行った。
お袋の気持ちを考えて・・・又泣いた・・・

2019年9月16日月曜日

プラモデルと彼女

俺には可愛い彼女がいた
性格は素直でスタイルも良かったが周囲からは
「えwあの女と付き合ってるのwwwお幸せにw」とよく馬鹿にされた

彼女は頭が非常に弱かった
高校を中退し、通信制の学校を4年かけてやっと卒業、まともな職にもつけず
派遣会社で毎日を繋ぐどうしようもない女
おまけに中学時代から周りの男に騙されては性欲処理に使われていた
友人の紹介で彼女と付き合い始めたのだが、これは、彼女が妊娠しても俺に責任を押し付けられるという算段があっての事だったらしい

付き合って1年は仲良く過ごしたがやはり彼女といるのが恥ずかしくなっていった
周りの目を気にしていたのは言うまでも無い
彼女は俺に甘えたり、俺の気を引こうとしていたがそれも逆にウザく感じるようになった
大学で良い結果が出せないことでイライラしていた俺は彼女に冷たくするようになった

ある日胃腸炎で寝込んだ俺の家に彼女が来る事になった
嫌な予感はしていたが全く予感は的中した
皿は割る、洗剤はこぼす、まだ乾いてない洗濯物をベッドに放り込む、お粥は煮えすぎて不味い

極めつけは、俺が大事にしていたエンタープライズ(戦艦)のプラモをぶっ壊したことだ
棚を掃除しようとして落っことしてしまったらしい
俺は完全にキレた
「もう、何やってんだよ!!死ね!帰れ!」と叫び彼女を突き飛ばした
彼女は泣きながら「ごめんね」とつぶやいて玄関に消えていった

それから一週間後、彼女は交通事故に遭った
連絡を受けて病室に入ると、医者が「ご家族の方ですか?」と言ってきた
俺は首を横に振った
「お友達?良かった、家族の方と連絡が取れなくて困ってたんです」
そう言って医者は彼女の酸素マスクを取って一言残して部屋を出て行った
「手を尽くしましたが今夜が最後です」

どれだけ時間が経っただろうか、深夜になり彼女が目を覚ました
崩れてゼリー状になった目から血が混じった涙がこぼれた

「ゆう君(←俺)・・・」
彼女は俺の手を握った
もう、握るというほどの力も無かったが

「・・ゆう君のこと考えてたら・・・私、信号見てなくて・・・」
彼女の息が荒くなった
「・・・・ゆう君の家、また行っていい?仲直り・・」
「いつでも来いよ・・元気になったら」
彼女はニコっと笑った
「・・・ゆう君・・」
「料理も掃除も教えてやる。でもその前に怪我治せ・・・おい!」
彼女は死んでいた

その後のことは良く覚えていない
医者と看護士が慌しく入ってきて死亡判断?のような事をやっているのを眺めていた
そして気がついたら彼女は棺桶に入っていた
のろのろと病院に来た家族の人たちは冷めた表情だった
葬式も告別式も身全てが事務的だった
悲しんでる人はいなかった
「ああめんどくさい」と愚痴るやつもいたと思う

後日、家族の人に頼まれて彼女の家を整理しに行った
古ぼけたアパートで部屋も狭かった
相当質素な生活をしていただろう
机に日記帳があったので開けてみると下手な字で俺との出来事が書き込まれていた
日付は交通事故の前日で止まっていた
涙が止まらなかった

「ゆう君の大せつなエンターぷラいずをぷラモデルやさんでつくった
みせの人にてつだってもらったけどじょうずにできたかな
あしたはこれをもってゆう君のいえにゆこう
おかゆもそうじもれんしゅうしたから
ゆう君は、よろこんでほしいな」

今、彼女の墓は吉祥寺にある
もし願い事が一つ叶うなら、この愚かな俺に、もう一度彼女を会わせて欲しい

2019年8月2日金曜日

小さな命を守って凍死

北海道を襲った暴風雪。車を捨てて歩き始めた父は、猛烈な地吹雪の中、たった一人の娘を守ろうと、10時間にわたって覆いかぶさるように抱きしめながら体温を奪われ命を落とした。

「大丈夫か」。3日午前7時すぎ、湧別町東の牧場用倉庫前で、雪の中に黒色の上着の一部を見つけた道警遠軽署員が大声を出した。
雪を払いのけると、同町の漁師、岡田幹男さん(53)が小学3年の長女夏音(なつね)さん(9)を両手で抱きかかえながら、うつぶせに倒れているのが見つかり、その胸の下にスキーウエア姿の夏音さんが泣きながら震えていた。
岡田さんは風が吹いていた北側に背を向けていたといい、夏音さんは低体温症ながら命に別条はなかったが、岡田さんは搬送先の病院で凍死が確認された。

同署によると、岡田さんは2日午後に夏音さんと一緒に知人宅に向かったが、同4時ごろ、携帯電話で「車が雪にはまり動けない。車を捨てて歩いて行く」と連絡があった。その後、
連絡が取れなくなった。車は同9時半ごろ、自宅から約1.5キロ西の道路脇の雪山に突っ込んだ状態で発見され、そこから約300メートル先の倉庫の前で2人は見つかった。
倉庫の50メートル先には民家があったが、吹雪で気づかなかったとみられる。

知人らによると、岡田さんは2年前に妻を亡くし、夏音さんと2人暮らし。近所の男性(51)は「一人娘をとにかく可愛がっていた。守りたい一心だったのでは」と話す。
別の知人によると、夏音さんは病院で「お父さんはどうなったんですか」としきりに気にする様子だったという。

2019年4月15日月曜日

捨てられたコレクション

こんばんは、こうちゃんです。

旦那のことを考えると悲し過ぎますし、そもそもが胸糞悪くなる系でもあるコピペです。

---

コレクションについての話がありましたけど、私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした。
鉄道模型でしたけど。かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした。
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが、毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい、留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました。
帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました。
残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです。
でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました。
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり、今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって…
あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが、夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい、かえって私が苦しくなってしまいました。
これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです。

こういう場合ってどうしたらいいんでしょう。

2019年2月24日日曜日

悲しいバイバイ

こんばんは、こうちゃんです。

ちょっと切ないさよならが・・・

---
妹が今年の夏に亡くなったんだけどすごいハイテンションな子だった。
ある時から急に別れ際「アデュー」しか言わなくなったの。

妹らしい可愛いおふざけだなーって思ってたら
その後1ヶ月もしないうちに病院で静かに息を引き取ったのさ。
そして昨夜ネットでなんとなくアデューの意味調べた。

フランス語でバイバイの意味だろ。って思ってたら違ったんだよ
「次、いつ会えるか分からない時のあいさつ。
長い別れを告げるあいさつ。」
あぁ妹は覚悟してたんだな。ってその時はじめて知って泣いた

---

家族にこんなんされてたら、つらいですね。
そしてその言葉の意味にあとで気づいてしまうというのも。

燃えPaPa

2019年1月22日火曜日

認知症のばあちゃん

こんばんは、こうちゃんです。

これはジーンとくる家族コピペですね。

---

俺には今年で80になるばあちゃんが居るんだが  
もう長い間認知症で自分の名前も分からないし  
言ってる事も支離滅裂だったもんでばあちゃんが何を言ってるかなんて俺も家族も全然気にしてなかったんだが、  
ある晩自分の部屋ですいませんすいませんって誰かに謝ってる声が聞こえて(もちろん一人で)  
いつもより妙にはっきり喋ってるからそのまま聞いてたら  
   
すいませんね、すいませんね、ちゃんと謝らせますから  
○○(俺)はホントは優しい子なんですよ…  
   
って言ってた  
   
俺が昔、友達に石ぶつけて怪我させて  
ばあちゃんが先生に謝ってる時の事をフラッシュバックしてるらしい  
なんか立ち聞きしながら泣いてしまった  
   
今日はデイサービスで居ないが  
帰ってきたら優しくしようと思う  
俺の事は新聞屋(か郵便屋?w)と思ってるらしいが  
そんなの関係ないぜw俺のばあちゃんに違いはないからな

---

認知症でも一部の思い出は残るんですね。

こうちゃん

2018年12月14日金曜日

サンタさんへ ガンがなおるくすりをください!

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いてお いたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子の家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

2018年12月11日火曜日

子供が絵馬で願いごと

この前近くの神社まで散歩したんだ。
絵馬がたくさんあって、あまりいい趣味じゃないなと思いながらも
他人のいろんな願い事を見ていたんだ。
「大学に合格しますように」「○○と一緒にいられますように」…

そんな中で、一番小さく安い絵馬板に、たぶん小さい子供と思われる字で、

「 おかあさんの びょうきを なおしてください 」


事情はもちろんわからない。
どんな子なのかも、どんな病気かも知りようが無いし。
けど、この子のお願いが叶うように祈るよ。
本当に心から祈るよ(´Д⊂ヽ

2018年11月29日木曜日

娘が好きだったハム太郎の映画を観た

娘が6歳で死んだ。
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。

直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので
病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
葬式には別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、
もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく、機械的にすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていた
ゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
とっとこぉはしるよハム太郎♪の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。

女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、
服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし
成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。

女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、
必死にやってきたのに、この世に神様なんて絶対いないんだと知った。

2018年11月13日火曜日

母が描いた絵のアルバム

うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんて無かった
だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた
絵は上手じゃない
ただ、どうにかして形に残したかったらしい
ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた
絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます?』ってコメント付きで
小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された
めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた
友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた
パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした
破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた
翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた
「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」
申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った

2018年10月14日日曜日

認知症の母親を…手にかけた事件の初公判

京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。

母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。



-----

悲劇、これはなんも言えない
せめてこの国がもっと悪党に厳しくなって、
真に必要な人に救いがいくようになりますように

2018年10月7日日曜日

沖縄に行かない?

「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。

それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。

叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。
ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。

自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。

自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。

2018年9月19日水曜日

知り合いの知的障害の叔父

知り合いの話。

知り合いには知能障害の叔父さんがいて、
知り合いが物心付いた頃から既にちょっとおかしい人だったらしい

そんな人だから、結婚も出来ず、60を過ぎても一人暮らしをしてた
で、ある日耳から変な液が出てきたってんで兄弟が病院に連れてったんだと

そしたら頭蓋ん中イッパイに膿が溜まってて、それが脳を圧迫してた
医者は親族にこう尋ねた
「昔、頭の手術をしたことありませんか?」

そういえば、彼が3歳だった頃に風呂で母親が頭を洗っていて水が耳に入り、耳が腫れたことがある。
その時手術をしたと思うが、それがどうしたのか

「恐らくその時に付いた傷が原因ですねこの膿は・・・今まで知能障害と思われていたのも、脳についた傷と膿がもたらしたものでしょう。」

先天性のものだと思っていたものが実は医療ミス
しかも3歳の頃の傷で、約60年分の人生を台無しにされてしまった

親族にしたらものすごいショックだったと言う
しかも膿の摘出手術を終えないと助からなかったが、既に本人にその体力がない状態

数日して亡くなったという
洒落にならん話だった

2018年8月27日月曜日

新聞配達の少年

特番で後味悪すぎて現在進行形のやつ。
新聞配達の少年がたまたま通りかかったDQNのガキ集団にリンチされて昏睡。DQN放置。
4時間後に心配して探していた母親が発見。
命を取り留めるも知的障害、記憶障害、顔面麻痺、指先の機能障害が残ってしまい、
進学を諦め学校を退学せざるをえなくなった。
成人して暫く経つが仕事がみつからない。勤め先をつてを頼りに公務員の障害者枠に入れ、
事務や雑用をこなすようになる。
その姿をカメラで撮影。両親が控え室からモニターで見て
「よかったね。ああ、ちゃんと仕事を覚えられるんだ。忘れないんだ。よかったよかった。」
と涙を流していた。
取材中、チェーンの飲食店で記者と差し向かいでハンバーグ食べるシーンがあるんだけど
「口が閉じられないんだ。だからこうしてるの」と
咀嚼のたびに手で顎と唇を閉じているのが悲しかった。
手を添えないと顎がだらりと下がってしまう。
「熱いうちに食べて火傷しないの?」の問いに「美味しいものは熱いうちにたべたいから」
と麻痺した顔でぎこちなく笑うのが今思い出しても胸苦しいわ。
彼は一生後遺症に苦しまないといけないんだから。
一方DQNのガキどもは一番重い刑で1年ぐらい少年院に入って
みんな結婚して子供作って普通に暮らしているという。

ノートに書いたすごろく

オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。

それをばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み~」
ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ
家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」と喜んでくれた。

先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。

遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか
妖怪も混じっていたり。「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に
「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」
人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。

2018年7月27日金曜日

生活保護をもらいながら祖父母の面倒を見てた女子中学生

ずっと昔見た新聞のコラムに載っていた。

目の不自由な祖父、祖母と、
生活保護をもらいながら住んでいる女子中学生がいて、二人の面倒を全部見てたが、ある日生活保護のお金を引ったくりされた。
これが地方ニュースになって、カンパが集まった。

役所は、そのカンパが臨時収入だからと言って、生活保護を打ち切った。
カンパの何十万円かなんてすぐになくなって、その子は役所に相談に来たけれど、
役所は臨時収入があったから再開できないと伝えた。
何度か役所に姿を見せたのは確かだが、その度に追い返したようであった。
生活保護を再開してもらえなかったことは、祖父母に言えなかった。

心配をかけたくなかったのか、どんな心境かは今となってはわからない。
目の見えない祖父母にはちゃんとオカズを作って食べさせながら、
その子はずっと、自分は塩とご飯だけ食べていたらしい。
ある時、祖父母がそれに気が付いて、
どうして自分だけそんな食事をしてるのか問いただした。

その子は笑ってごまかした、その夜、首を吊った。

2018年7月10日火曜日

母親のハンバーグの味

俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。なので料理は基本的に父が作っていた。
ただ、遠足などで弁当がいる時は、母さんが頑張って作ってくれていた。
でも、小学校6年の時の遠足で、見た目が悪い母さんの弁当を見られるのが嫌で、とうとう
「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当はいらない!!」と言ってしまった。
母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ、うまく作れなくてごめんねとしか言わなかった。
時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、
高校になってからは給食はないのでいつも昼は購買のパンですませていた。
しかし、高校2年になったある日、母さんが弁当を作ると言い出した。
それは遠足の時に作ってくれたものとは、見た目も味も段違いに良くなっていた。
不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ。
と、思ったのもつかの間。 肺炎で入院したかと思うとぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しか経たない内に。
母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは俺の為に、
定食屋をやっている知り合いの所に一年間料理を習いに行っていたらしい。
そして後日、その定食屋に行って見た。
定食屋の人と俺は直接、関わりは無いけれど、優しそうな人だった。
そして母がよく弁当に入れていたメニュー、ハンバーグ。それの定食を頼んだ。
そして、それを口にしたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
たった3ヶ月しか食べられなかったけど、たしかに母さんのハンバーグの味にそっくりなのだ。
腕がまともに動かせないのに、頑張って作ってくれた、あのハンバーグの味。
形は少し不細工だったけど、とても美味しかった、あの、ハンバーグの味。